【資料】「死刑囚表現展」主催団体からの回答文

公開質問状に答えます

7.26 追悼アクション有志の皆さま

 死刑囚表現展を運営して17 年目を迎える私たちの活動が、個別の死刑囚との具体的な関わり合いをもち始めるのは、ひとを殺めてしまった加害者に対する刑罰として、国家が死刑を科した段階においてです。(この社会でなお続く冤罪案件による死刑判決および確定、そして執行は、許しがたい国家犯罪ですが、実際に殺人に至る犯罪を起こしたひとの場合とは問題の位相を異にするので、ここでは考えないことにします。)
 それぞれの死刑囚が犯してしまった事件についての思いは、この活動に関わる私たちひとり一人の胸のうちに、当然にも、生まれます。怒り、哀しみ、悔しさ、自らの至らなさ、戸惑いーーさまざまな思いが、どの事件の場合にも交錯します。その思いを引きずりつつも、私たちが面と向き合う/向き合わなければならないのは、許しがたい犯罪をすでに起こし、そのゆえに国家権力の手中に囚われ、死刑判決を受けて、いつ処刑されるかもわからない死刑囚です。

 そのひとが、どんな惨い犯罪を起こしたひとであろうとも、「犯罪と刑罰」の観点から考えて、国家が被害者に成り代わって代行するような死刑執行は許されないと思うからこそ、私たちは活動を始めました。「基金」の名称に「死刑廃止のための」という文言を付したのは、そのためです。自分が知らない時代の、過去の犯罪者をめぐる書物を読んだり、「表現展」を通して具体的な死刑囚との関わりが積み重ねられたりするなかで強く意識するのは、いかなる犯罪の理由も、個人的な「資質」にのみ帰して判断してはならず、むしろその時代を規定している主流的な価値観、社会・政治状況、時代思潮を背景にして捉えるべきだということでした。つまり、そこで犯罪の背景は、私たちが共同してつくりあげているその時代の社会全体に還元されることになります。惨い犯罪事件を知って「自らの至らなさ」を感じる時があると上に記したのは、加害者とも被害者とも共に生きてきた共同社会の一員としての、自らの責任を思うときがあるからです。

 私たちがこの活動で、向き合っているひとは、かつては自在に考え、自由に行動し、他人の金品や生命までをも奪う「自由」を身勝手にも享受しました。その行為を正当化すらする者もいます。だが、そのひとは、いま、犯した重い罪ゆえに囚われ、国家によって強制的な死を宣告されています。一日二四時間を独房の頭上のカメラで監視される。あらゆる立ち居振る舞いが看守に見つめられている。自由は、ない。自業自得、と言う人がいるでしょう。もちろん、そうなのです。死刑囚表現展の運営に関わる私たちでさえも、場合によって死刑囚の物言いの身勝手さや、許しがたくも不快な表現に出会うと、そんな思いがけない本音が内心に頭をもたげることもないではありません。

 だが、死刑囚が「自由」でいられるのは、心の中でだけだ、と思い直します。そして、「表現展」に寄せられた作品を読み、眺めるのです。その人物が実行した犯罪は許しがたいと考えるのは当然です。同時に、いまはこんな表現をしていても、年を重ねて応募を続けるなら、表現も人格も価値観も変わってゆく可能性を誰もが持つ。そのことを、私たちは、17 年間にわたって続けてきた表現展の試行錯誤のなかで実感してきたのです。
 募集→応募→選考→批判と批評→展示→応答→場合によっては、さらに反批判一ーその全過程をひと続きのものとして運営してきたからこその結果だと考えています。

 以上のような考え方に基づいて、今回ご指摘の「表現」については、顧みて、次のように考えます。

  1.  皆さんが言われる「へイトスピーチ」、私たちはこれを「憎悪表現」と言い換えますが、実際に行なわれた「憎悪扇動」の犯罪行為と、言葉による「表現」を同一視することはできないと私たちは考えます。後者によって傷ついたり、精神的にダメージを被ったりしている方がおられることは否定しません。だが、この言葉自体が物理的な暴力を行使しているわけではありません。この憎悪犯罪の実行者は、恐ろしいことに、犯行の時点では自らの立場に侮りがたい「確信」を持っていました。その「確信」の背後には、米国のトランプ大統領や日本の安倍首相がいたのです。ふたりは、直接か間接の違いはあっても、選挙によって選ばれた政治的な代表者であり、かっそのような人物が、表現の仕方には陰陽を含みつつも、民族差別・排外主義的な本質を持っていることを、同じ考えを持つ彼は敏感に感じ取ったのです。彼らがそれぞれの国の、政治的な最高責任者に選ばれているのは、彼にとっては「民意」の現われです。だから、犯罪を起こしたときに彼が抱いていた考え方には公的な関心が寄せられている、と彼は考えていたに違いありません。いま囚われの身になった彼は、この「表現」を通して、公的な関心が寄せられている問題に関わって、自らの政策提言的な物言いをしたにすぎないのです。
     確かに、それは、許しがたい考えです。悩ましいことですが、殺人を犯したがゆえに死刑囚となっている人びとが、自らの行為についてノンフィクションで語るときには、行為そのものやその時の自らの心理的な状態についての記述が出てきます。さまざまな偏見に基づく他者への侮蔑・蔑視、そして時に憎悪の「表現」が出てくることがあります。その内容が正しいか、正しくないかという意見を私たちは批評・批判としては言うことができます。しかし、仮に「正しくない」からといって、それを「表現展」運営の通常の道筋から外す権限を行使することはできないのです。
     
     
  2. 「正しいか」、「正しくないか」は、公的な言論空間の中で、自由に、広く議論されるのがよいと私たちは考えます。その過程で、最善の結果が生まれるだろうと確信しているのです。「表現展」選考会の内容を公開し、後日には公開の場で審査討議を行ない、選考委員による講評を市販されている雑誌に必ず掲載し、作品を展示・公刊などの形で公共空間のなかに提出しているのは、そのためのささやかな試みです。このような議論の過程で、起きてしまった悲しむべき犯罪を、社会全体の文脈のなかに据えて分析することが可能になります。すべてを犯罪者個人の責任に押しつけて、社会全体が共同で担うべき課題を探ろうとしない通常の裁判やメディア報道の在り方も、そこでは問われることになるのです。現状の日本は、このような公的な言論空間が十分に機能している社会だとは言えません。それだけに私たちは、それを作り出すための努力を続けたいと思うのです。
     
     
  3. 「へイト」にしても、「憎悪」にしても、それはいずれも「強い」言葉です。実際に引き起こされた「憎悪扇動」犯罪の惨い本質を言い当てるためには、避けることができないと理解します。同時に、「表現」「言葉」をそう規定するときには、私たちは慎重でありたいと思います。世界は「残酷さ」に満ちており、人間には否応なく「負」の部分があります。実際に起きる犯罪は、その「残酷さ」と「負」に満ちています。それに「憎悪扇動」犯罪の名を与えることはできます。しかし、「表現」や「言葉」の場合は、すでに述べたように物理的な暴力を伴っていません。それに「へイト」や「憎悪」 の名を当てるのは、究極的な、最後の選択肢だと思います。ひとたびそう規定された場合には、それは「使わない」「使うべきではない」社会規範として機能します。それが望ましい場合もあるでしょう。同時に、実際に起こったことがなかったこととされかねないケースも生まれ得ると思います。それは、悲しむべき犯罪を少しでも少なくしてゆく道には繋がらないでしょう。人は、本来的に、間違った考え方に出会い、「正しくない」捉え方を見聞きしても、それを糧に成長しうる存在です。
     
     
  4. 死刑囚「表現展」を運営するに当たって、私たちは、かつてひとを殺めた経験を持つ死刑囚も、自己変革の可能性を持つ人間としての信頼を持ちます。人間の「可変性」を信じるのです。加えて、死刑囚が描いた(書いた)展示物や公刊物に接する人びとの判断力と人権意識に対する信頼感なくしては、できることでもありません。「表現」と受け手の関係性は、一回性のものでもなければ、直線的なものでもありません。重要なことは、相互主体的なものであることです。その関係性は、お互いが年ごとに変化を遂げながら、長い時間をかけて形成されてゆくものです。
     
     
  5. 皆さんからの今回の質問と抗議を受けて、改めて、私たちの活動の在り方を不断に点検することの重要性は自覚しています。殺人犯罪という、取り返しのつかない、不可逆的な事件を起こしてしまった人びとに関わっての活動ですから、私たちは出発点からして数多くの「マイナス」の条件に取り固まれています。この活動が、できるだけ多くの人びとにとっても、「人間の可変性」への信頼に繋がるものになるよう、力を尽くします。

2021 年7 月8 日

死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金
「死刑囚表現展」運営会

 
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